人生は悲しみとともにある
はじめまして。
私は名もない、43歳の非正規毒男であります。
43歳の非正規毒男というと、あなたは何を思いますか?
そうです。負け組みです。
43歳、戦前では既に初老と呼ばれる年代なのだろう。
40歳を超えると、それまであまり考えてなかった「老い」を感じるようになった。
そしてそれはその先にある「死」をも。
私は心が弱い人間だ。ゆえに「自殺」を何度も考えた。
だが、考えるだけで実行してない。だから今、生きている。
「僕なんか生きる価値のない人間だ」
と何度も呟いた。でも、価値がなくとも生きている。
生かせてもらっているのか。
だが、生きていけるのは飯、すなわち「カネ」があるからである。
それがなくなったら生きていけない。
私は山歩きが好きなのだが、山を歩いているとき、もしここで遭難したら自分は野草なり、動物昆虫魚なり、喰って生きていけるのか、と考えたことがあった。つまり、人間が野生動物として生きていけるのか、ということだ。
まず生きていけまい。
生きていけたとしよう。銭がなくなったら山で自給自足。
そういう「人生」もありなのだろうか。
そこに「楽しみ」があればそれもいい。
だが楽しくなければ、それはただ「生きるためだけに生きている、すなわち“死なないために生きている”」状態なのだ。
我々非正規は、生きるために仕事をしている。が、低賃金で不安定な状況。
ただ生きるためだけに、働いている。
勝ち組のように、「贅沢な人生を送るために働く」のではない。
死なないために、働いているのだ。
それを考えていて、悲しくなった。
そこには「愛」が存在しないのだ。
私は寂しがり屋だ。だが、人付き合いが凄まじく下手で不器用な男である。
だから寂しいのに、友達が少ない。
そして、恋人もいない。
悲しみの数は愛する人の数と比例する、と私は思っている。
たとえば、ペットが死んだらとてつもなく悲しい。
私も26年前、ウサギが死んで悲しみのあまりテスト勉強も手につかず、世界史が11点だった哀しい思い出がある。
だからあの悲しみがあるから、もう寂しくてもペットを飼いたいとは思わない。もっとも賃貸アパートだから飼いたくても飼えないのだが。
つまり、「愛するゆえに悲しみが生まれる」と。
どこかの少年漫画の悪役が叫んだ台詞を彷彿させるが、中学校の時ピンと来なかったこの漫画の台詞が今になると深く身に染みる。
秋も深まり、やがて寒い冬が来ると、人肌が恋しくなる。
43歳のおっさんの人肌なんぞ、誰も欲しがらないだろう。
そうやって冬が来て、春を待ち望んで、時が過ぎる。瞬く間に。
当たり前のようにいる親も、老いて、やがて永遠のさようならを私に告げる日が来るだろう。
その時を待つかのように、人生は続いていくのだ。
悲しみの瞬間に到達するために、私は生きているのか。
それでも、私は死なない。生きる。生きていたいのだ。
生きていく以上は、楽しみの時を少しでも多く取りたい。
だから、私は、悲しみや苦しみを経験したら、その分たくさん笑おうと思っている。