脳内のものを形づける場所

私の脳内で発生しては消える無数の何かをここに形として残そう。

逝かせてもらうまで生かしてもらおう

❝生物❞である限り、いつかは「死」に至りつく。

永遠の生などあり得ないし、あってほしくない。

100歳になった私の祖母がいみじくも言った言葉。

 

「誰もいなくなっちゃった・・・」

 

これほど説得力のある言葉はなかった。

私は死にたいと思ったことは数えきれないほどある。

だがそのほとんどが今降りかかっている自分への困難から逃げるため。

つまり逃避行の旅として、死という場所を選んでいるだけなのである。

そのことに気付いた私は、死にたいと思うことを辞めようと思った。根気も忍耐力もない私だが、このことだけは自分との約束と思った。ただし、それは「両親を見送るまで」という期限付きだが。

私の両親は幸いなことに今も元気だ。両親とも古希を越えているが、今の時代は古希はほんの通過地点だ。母方私の曾お祖父さん(1886年生)は慶応大学の有名な野球選手だったそうだが、その曾お祖父さんが明治大学野球部のユニフォームデザインを手がけたそうだ。

それを取材された時のインタビューが昭和29年の書籍(書籍名は不明)に記載されていたスクラップを昨年、母方の実家に行った際、見せてもらった。その記事の中で曾祖父は「70歳という大変な長寿で・・・」という趣旨で紹介されていた。

 

昭和29年は古希、とりわけ男は大変な長寿として珍しい存在だったに違いない。

そうすると、昭和前半期までの人生というのは、還暦過ぎに尽きてしまうのが一般だったのか。

乳児の死亡率が平均寿命を押し下げてたとはいえ、長らく日本は「人生50年」だった。確かに50を超えると身体のガタが一気にくるらしい。47になる私はもうすぐその試練を乗り越えなければなるまい。

 

人生50年、60年。だとすると、私はあと3年、13年という人生となる。たったそれだけなのだったのだ。戦前以前の時代なら。人生って、本当に「あ」っという間なんだな。

10歳のあの頃の記憶はまだ私のどこかに新鮮に輝いている。13歳で好きになったあの娘のことも。なんでこんなに近い記憶なのに、こんなに遠くに行ってしまったのか。

そしてその間、どれだけの近しい人が本当に手が届かない遠い遠いところへ逝ってしまったのか。その人達に「久しぶり!」と会いに行こうにも、永遠に絶対に会えない。どれだけカネを積もうが、それは不可能なのである。

「死」とはそういう別れ。

その人達に会うために死ぬ?

とんでもない!

死んだら会える、という保証がどこにあるのだろうか。

私に生きていて欲しいという人が一人でもいたら、綺麗ごとじゃなくて生きよう。

ただし、世間様が「いいよ」と言うまで。

「そろそろ向こうへ行く頃じゃないかね?いや、強制じゃないけどね。どうだろう?」

と無言で提案されたとき、私は逝くというよりも静かに眠ったまま、向こうへ行く手法をそれまでに科学者に研究してほしいのである。安らかに、いい夢を見たまま逝くのであれば、今様々な貧困や病気、介護などで苦しんでいる人たちに、素晴らしい希望をもたらせてくれるのだが。