私はなぜ私なのだろうか
私はおよそ今から46年と半年前に、この世に誕生させてもらった。
何の因果か、まず人間として、日本人として、そして私として。
他に選択肢はいくつもあったろう。
なのに私は私を選択された。
私はぶっちゅまん(仮名)と名乗ろう。
勿論、本名ではない。
もしそうだったらとんでもないキラキラネーム(?)である。
私はこのぶっちゅまんという人間の姿でこの46年間生きてきた。
いや、生かされてきた、という方が正しいのか。
もしぶっちゅまんの頭脳・運動神経・手先の器用さ・コミュニケーション能力・集中力・自己管理力が並みレベルならば、私はこの文章を今、こうして書いていることはないだろう。
恐らく、気の合った大勢の仲間と、そして愛し合っている家族とともに、支払いが済んだ3千万円ぐらいの素敵な一軒家の暖房がよく効いた暖かいリビングルームで、談笑しながら美味しい刺身とキムチ鍋に舌鼓を打っていることであろう。
勿論、純米酒を嗜みながら。
しかし、全くそうじゃないから、寒々とした隙間風が入る築後40年のおんぼろアパートの一室で、一人寂しくキーボードを叩いてこうしてこのブログを書いているのだ。
どちらが幸せだったのだろうか。
もし、私がアイツだったら?一流企業で誰からも好かれ、仕事もできるアイツだったら幸せだっただろうか?
私は、幽体離脱をひたすら臨んだことがあった。
私がぶっちゅまんの肉体とサヨナラし、アイツの肉体に入り込めば、アイツとして生まれ変われるんじゃないか、と。
じゃ、誰がぶっちゅまんに入るんだ?
アイツなのか?
アイツはちゃんとぶっちゅまんの肉体を大事に扱ってくれるだろうか。
ぶっちゅまんを愛してくれるのだろうか?
私は孤独で寂しくて辛い時、いつもこうつぶやく。
「安心しろ、俺が俺のことを大好きで愛してるんだぜ?これで十分だろう」と。
そして私は幽体離脱をやめた。
神がお選びになった、ぶっちゅまんという男と、一生付き合っていこうと。
何をやってもダメで、人から貶されまくってきた人生。
運動神経ダメで、手先が不器用で、コミュ力が欠けてる。
それだけで「普通に生きる」ことを否定されてきた男だが、私だけが(私)の苦悩を理解できる。
そう、私の最大の親友は私なのだ。
もう別れようなんてことは言わない。
私よ、これからもよろしく頼む。